キャリアウーマン・シングルマザー・白血病患者:Melodyのストーリー

日本にきたきっかけ

 

幼い頃から、数学と理科の特進クラスに入っていました。ずっと数学と理科を勉強し続けたいと思っていました。ところが、高校に入り、今まで通り数学と理科の特進クラスに配属され、そこで人生最大の苦しみを味わいました。初めての物理のウィークリーテストで 12 点を取りました (100 点満点)。ショックを受けて市販の物理参考書を全部購入し、練習問題を全て解けましたが、翌週のウィークリーテストで14点しか取れませんでした。自信を失った私は学校に行けなくなってしまったので、1年間休むことにしました。

復学後、数学と理科の勉強をすべて避け、大学入試に数学と理科から最も遠いと思われる日本学科を選択しました。大学時代は昔のことにつられ、全力で勉強することができず、課題や試験などはほとんど同級生に頼ってどうにか卒業しました。卒業後、日本語レベルはN1がやっとでした。これから社会人になる自分は何ができるのかわからないと気づきました。

結局、親に「留学に行ったほうがいい」と言われましたが、高校の時、親にさんざん迷惑をかけてきたことを思い出すと、もうこれ以上親に負担をかけたくないと思いました。経済面から考えました。幸い私のことを受け入れてくれる学校を見つけました。一橋大学の英語受講の公共経済学の計量経済学の修士号を選びました。

 

 

投資銀行に入ったきっかけ

 

大学院の夏期講義の際、学校の掲示板に昼食代と交通費込みで1時間5,000円のアルバイト募集の貼り紙を見て、深く考えずそこに書かれている連絡先にメールを送ってみました。

面接会場に着いたら、会場には面接官二人と私だけでした。更に、面接では日本語だけで行うため、当時日本語が全く話せない私にとって気まずかったです。でも、せっかく面接に来たので、失敗しても損はないと考えを変えました。紙とペンを手に取り、コミュニケーションを取るため、簡単な英単語と絵を描き始めました。後に、この会社は新卒として入社した野村證券でした。

幸いなことに、私の熱意が面接官に伝わって、野村證券で2週間のインターンシップに参加することができました。ただし、インターンシップに合格した本当の理由がわからないままでした。おそらく、リーマン・ブラザーズが野村證券に買収された直後で、自社の国際化を促進するため私を採用したと思いました。インターンシップが終わっても、当時の面接官と定期的に面談をしていました。

彼らも日本で就活するにあたって必要な知識などを丁寧に教えてくれ、面倒をみてくれました。同時に、彼らに教わった知識を活かし、他の外資系コンサルティング会社や投資銀行の面接にも積極的に受けました。運が良くて、いくつかの内定をもらいましたが、最初の無謀なインターンシップの機会がなければ、今の私がいないだろうと思いました。また、日本で働くなら、100%日本の職場文化を体験できるところが一番いいと思い、恩返しも兼ねて、最終的に最初インターンショップで入った野村證券の金融商品開発部門を選びました。

野村證券での仕事は順調で、入社してすぐニューヨークに派遣される機会も得ました。ニューヨークでの経験はとても勉強になりました。でも、それも自分のキャリアを見つめ直すきっかけとなりました。その後、ニューヨークと野村證券を離れることを決め、東京に戻り、米系投資銀行のリスク管理部門に入りました。

 

 

人生大打撃

 

東京に戻り新生活が始まったまもなく、当時のパートナーと出会いました。家庭を持つことへの憧れがあって、すぐ結婚し、妊娠もしました。しかし、娘は自宅のトイレの床で出産してしまい、30週近くの早産でした。生後2ヶ月以上保育器の中にいました。また、早産のため、血液の1/6も変えました。ようやく子どもが家に帰ることができたが、パートナーはリストラの影響で精神不安定になり、暴力や育児放棄などの行為まで出てきてしまいました。

子どもが退院してから2ヶ月後、すぐフルタイムで投資銀行の仕事に復帰したが、保育園を探す余裕もなかったため、在宅勤務を申請し、育児しながら働くことにしました。更に、元夫のこともあり、体調が完全に崩れてしまい、2ヶ月以上40度の高熱が続いていました。おかしいと思い、昼に急いで大きい総合病院に行きました。血液検査と骨髄検査を受け、午後4時ごろ、医師から電話が入りました。急性リンパ性白血病(通称、血液のがん)であることを告げられました。すぐに入院しないと、余命はなんとも言えないという状況でした。

当時、子どもはまだ生後7ヶ月、パートナーは完全に育児放棄の状態でした。様々な問題が重なり、自分の死を恐れる暇もなく、どうやって生きていくのかだけを考えていました。

私はリスク管理者の考え方を使い、すぐに現実を受け入れました。離婚を決め、慰謝料も要求せず、プロポーズにもらったダイヤモンド指輪も返すことにしました。血液がんについては、最悪の事態 (死亡) を予測し、最悪事態が起きる確率を下げるため、最もいい方法(化学療法を受ける)を探しました。抗がん剤治療のため、入院していた半年間、両親は台湾から来て子どもの世話を手伝ってくれました。

退院後の3年間は、化学療法を受けながら働いていたが、脱毛、止まらない嘔吐、輸血、治療中の原因不明の発熱などを耐えてきました。さらに2年間の経過観察期間を終えたところ、医師から血液がんが寛解したと告げられたとき、胸が熱くなり、ようやく元の生活を取り戻すことができました。死神と戦って、一緒戦ってきた家族、友達、更に会社の上司と同僚、みんなはわたしが戻ってくることを信じてくれたので、ものすごく勇気と自信を与えてくれました。そして、私も本当に期待通り戻ってきました。

 

 

仕事と育児

 

病気の間も同じ会社で働いていました。私の仕事は主にリスク管理部門でさまざまな案件を担当したり、または新卒採用のお手伝いをしたりすることです。会社に対して、当時の状況を正直に話しました。がんを患い、離婚手続きをしている間、直面する課題など全て伝えました。幸い会社には産業医がいるので、病院の先生と連絡を取って内容を理解した上で、融通を利かせてもらいました。入院中、長期休職にもかかわらず、給料は全額支給に加え、勤務場所(在宅勤務)・時間も自由に選べることにしてくれました。同部門の同僚もとても協力的で、仕事の分担を率先して手伝ってくれます。

がん患者である同時に、キャリアウーマンそして、シングルマザーでもあります。正直なところ、キャリアウーマンとシングルマザーの役割を同時にこなす事でも容易ではありません。キャリアウーマンというのは、自分のキャリアに対して理想を抱いているが、理想は何もないところから現れるものではないため、仕事に献身的に取り組むことが必須です。

母親の役割に関しては、シングルマザーであることもあり、子どもにとっていい親であることを常に自分に言い聞かせています。ひとり親の子育ての第一条件は、物事に対して冷静に対処できる自信を持つことです。特に泣き止まない子に親自身がパニックになったら、問題解決ができなくなってしまいます。これも職場で同僚との信頼関係を築き、自分のことを理解してもらうためにも応用できると思っています。

社会には、ひとり親家庭で育てられた子どもたちに対する固定観念があります。他人の目を気にする必要はありませんが、子どもにどのような教育を受けさせるかを考えさせてました。二足のわらじを履いていることは決して楽ではないが、一度しかない人生なので、誰であろうといずれ燃え尽きます。少なくとも燃え上がるところは私が望んでいるところにしたいです。

 

最後

 

私の話はそれほど特別なことではないと思っていますが(同時にこういうことを経験する人は少ないだろう…)、おそらくさまざまの事情で、誰かに話すのを抵抗しているかもしれません。健康を取り戻した今、残りの人生は新たな始まりだと考えています。

苦しい時期、このプラットフォーム(Worklife in Japan)からたくさんの恩恵を受けてきました。この記事を通じて人生の可能性を皆さんに伝えたいと思っているので、さらなる指導をお願いします。

完璧な人生、場所、仕事などはこの世に存在していません。納得できる給料で、快適に暮らせる場所を見つけ、穏やかに過ごしていくこともいいし、または自分のコンフォートゾーンから抜け出すため、あらゆる課題や挫折に立ち向かうことも間違っていません。一番重要なのは、盲目的に外的要因のせいにするではなく、困難を乗り越えていくことです。

最後に、私自身とこの記事を読んでくれた皆さんにエールを送ります。